アメリカンドリーム(保存版)

いつまでも暑い夏が続いております。おはようございます。本日はVIP読者様からのリクエストに応えます。初めてコメントしたよっていうお方なら対応しませぬがそこはそこ。パチンコビレッジ四天王様からの要求とあらば無下にはしませんがほどほどに願います。このパターンは過去にも何度でも。古くはふむふむ様。mikifuji様。かなめ様。津島様。ユリア様。村上亀吉様色々。お客さんあっての商売です。読者さんあってのパチンコビレッジです。

 

1990年代前半のお話を書きますけど、この時代のお話に関してはこれまでに何度も書いています。基本この時代の記録は大学ノートに転記した内容しか残ってないので2005年以降の記録に比べると陳腐な内容になっています。1991年羽根物半田キング、東海市、刈谷市がメインで年末にサンアポロ。1992年はサンアポロから始まりましたが、半田から岡崎への転勤があった為6月くらいからは岡崎と西尾での活動。その年の8月頃から本格的に「パチプロ日記」と称してパチンコの成果を書き綴りましたがこの記録は1993年の夏場で一旦は終了。従って1993年の後半から1997年の後半までの記録については特賞間回転数履歴しか残っていないし、1998年から2001年までは一旦パチンコをやめていたのでこの間の機械のことを問われると浦島太郎状態です。極稀にこの間のことを自慢話してくれるパチプロさんがいて、話が合わないと「アレ」っていう顔するけど無理もありません。私は過去の話をするのは凄く嫌いなんです。今までにもあんまり回顧録書いていないと思うし、パチンコこんな台ありましたよってのは書きたくないんです。記憶がところどころ抜けてるから。物事を正確に残すようになったのはパソコンが普及してから。それまでは手書きのノートにあれやこれやと書いてただけなので本当に正確な情報をお伝えする自信がありません。


自分の記憶を辿って書くことになるけれど


正確でない情報をここでUPすることが嫌いってことは何となく伝わってるのではないでしょうか。無論少しばかり曖昧な部分があっても読みたいという意見は理解するものの、曖昧なことを書くのが嫌いってことくらいは分かって頂きたいものです。

 

パチンコの機種別情報を詳しく記録に残すようになったのは2004年辺りからです。2003年に竹屋という会社の機械開発の方にパチンコの計数管理を教えて貰ったので、その頃から今の特賞間回転数履歴及び、表計算シートを作るようになりました。竹屋の直営店、パーラーモンスターハウスで店長してた香川さんという人から計数管理を学んだことが始まり。つまり今の礎は香川さんから学んだことが全てです。

 

保留玉連チャンに関する記事を読みたいようでしたが、本当に大昔のことなので記憶がぶっ飛んでいます。それでよければという前提ですが、当記事を書くためには色々と下準備がいるでしょうね。吾郎さんは保留玉連チャン機の時代は本当に打ち手の技術で何とかなったのか?という疑問のようでしたが、そんなもんはネットで調べればいくらでも掘り起こせるはず。何故今頃になってって思うけど、この辺りのことを記事にするのは本当に


本当に骨が折れるんです。

 

一口に保留玉連チャンと言っても
攻略法がないもの
攻略法があるもの


攻略法がある遊技機に関しては
保留玉連チャン機
電動役物遊技機
保留玉じゃない連チャンデジパチ
権利物


とまあ色々あるわけでして、保留玉連チャン機だけが打ち手の技術で連チャンしやすくなる遊技機ではありませんでした。

 

保留玉連チャン機として一世を風靡したのは


平和から発売された麻雀物語が最初。大当たりラウンド中の演出で女の子が服を脱ぐやつね。この時の保留玉連チャン率がどれくらいか知りませんけど、体感的には4回転合わせて2割くらいですかね。その後ドンスペBという台が、パチンコ必勝ガイドに詳細を解明されて市場は盛り上がっていきます。この時は連チャンの特性について指摘したのが、ガイドの読者からのご意見で、それを基に検証、解明したのがパチンコ必勝ガイドということで結論は単発回しをすると大当たりしたのち、アタッカー解放後に入ったヘソ保留玉1発目に強制大当たりを誘発というものでした。これ以降通常回転時において、保留玉を全部点灯させるよりも、保留玉を一切点灯させない方が有利であるというマシンが数多く商品開発されました。これに関しては保安通信協会のことを知らないと駄目なんですけど、調べてもいつ頃からこのようになったのか良く分かりませんね。


保通協型式試験
パチンコ⇒150万円
パチスロ⇒180万円


今では型式試験に合格した機械しか市場に出てきませんけど、そうなったのがいつからなのか分かりません。


保留玉連チャン機の時代には、型式試験そのものがあったのかどうか?
型式試験に合格した遊技機しか駄目だったのかどうか?
その時代には既に保安通信協会は設立されていました。


ただし、どう考えても厳格な試験を通り抜けた台ばかりではなかったようなあという時代です。

 

(1)ドンスペBの単発回し攻略法
(2)ブラボーキングダム単発回し攻略法
(3)フルーツパンチ単発回し攻略法
(4)麻王単発回し攻略法
(5)ブルーハワイ保留4個目強制連チャン
(6)アメリカンドリーム保留4個目強制連チャン
(7)ソルジャーアタッカーフルオープン連チャン


他にも色々あったと思うけどぱっと思いつくのはこれだけ。

 

(1)ドンスペBの単発回し攻略法は自身は恩恵を受けておらず。あんまり近場になかったような記憶が飛んでます。攻略法として最も効果が高いのは言うまでもなく、ブラボーキングダム家が建つかと思うたわ。マジでパチプロんなろうと思ったんがこの機械を打ってた時期で一撃10万円くらいは余裕のよっちゃん。この台は保留玉3個以上状態でリーチがかかって外れたら天国モードから地獄モードヘ転落するんで、要は保留玉に入れなきゃいつまでも数珠つなぎ連チャン状態。大当たり確率1/25の無限ループは破壊力満点。大当たり消化後にリーチがかかって外れるとガックシとなるのですがここでも自力で地獄から天国に戻す方法に辿りつきましてん。美味しい思いしかなかったです。因みに地獄モードでは大当たり確率はゼロ。


フルーチパンチに至っては場合によってはブラボーキングダムよりも美味しいと思った台なのでアレなんですけどなんでこの機械が美味しかったかというと、回れば当たらん事を逆手に取った商売が成り立つけど、その逆手に取ったやり方を更に逆手にとれる方法があったから。つまりフルーツパンチは大当たり確率は1/240やったけどそれは保留玉がない状態での抽選によるもの。それを逆手にとって店は、パンチを大盤振る舞いする店が現れたけど、客はそんな事情を知らんからこれ幸いにと保留玉全開でぶん回しますが、こうすると1/240では当たらない。全然当たらない。回っても勝てぬ台に化けるけど、そんなときあたしは単発回し攻略法。単発回ししてると1/240なんで他の客より有利な状態で打てるわけ。ところがこの台には強力なる連チャンシステムが仕組まれていて、大当たり中に表示される3つのセグで、次回転で大当たりするかしないかが分かった訳。このセグはお店公認だから、遊技機の盤面にセグの一覧表を貼り付けてる店もあったくらい。だから単発回しをしていると保留玉がない状態で当たるから連チャンせえへんってことになるんで、私は普段は単発回しでリーチがかかったら即座に打ち出しを開始してヘソ入れを敢行。こうすると大当たり後のセグが決まった時に次回大当たりとなっても保留玉が1個残るわけ。連チャンしますわな。


まれにリーチ後にヘソに入らんで大当たりすることがある。


そんなときに、次回連チャンのセグが現れたらどうする?

 

こういう時は右打ちで電チューに玉を拾わせながら、時折左にハンドルを戻してヘソ入れを敢行。この状態で真ん中のデジタルが回りだすまでに少し時間的な猶予があるんで、その間にヘソに入れれば保留玉連チャンが完成です。同じようにしてその次も次回予告が表示されたら、ヘソ入れを敢行して3連チャン、4連チャンと狙います。1回の当たりで1万円出て1回交換だけど、2連チャン、3連チャン、4連チャンとくればとんでもない金額に膨らむんでね。千円で23とか24回転が通常営業だけど、僕は1000円で40~43回るパンチ打ってたから。


6000円平均で当たって単発でも1万円
それで3連チャン、4連チャン当たり前みたいに来たから


期待日当が10万円くらいあった。


これは今も存在するプレイランド平和大治店グランドオープンの時ね。

 

麻王の単発回し攻略法は多分ドンスペBに似た仕組みだったと思う。どういう構造でそうなったかは知らんけど、兎に角通常時に保留玉があると何も起こらんけど、保留玉がない時に大当たりするとその大当たりラウンド中に入った保留玉で連チャンが発生するんよ。詳しいことは覚えとらん。ただひたすら通常時に単発回しを続けるだけ。

 


ブルーハワイとアメリカンドリームはどちらも三洋物産の機械。先に出たのがブルーハワイで強力な連チャンがあるのはしっとったけど、この台はゲージが辛かったんで無視してた。自分がのめりこんだのはその次のアメリカンドリーム。遊技機を見た瞬間ゲージに惚れ込んだけど、保留玉連チャン性能も抜群に良かったんで、当時は右を向いても左を向いても

 

アレジンアレジンアレジンジンの世界


やったけど私はそんな機械には目もくれずアメリカンドリーム世界一。大当たり確率が1/229で保留玉の4つ目に仕組まれた連チャンが入る。その仕組みは、アタッカーが開いてVゾーンに玉が入った直後。多分2秒以内にヘソに4個めの保留ランプが点灯するとかなりの確率で強制的な大当たりが入る。だから常に保留玉の4つ目は開けとかないかんけど、保留玉3つあって大当たりすると緊張が走る。大当たり後にアタッカーが開いて打ち出しを開始すると、アタッカーの中央Vゾーンに玉が入る前に、ヘソに玉が入ると絶対に連チャンはしないから。てなわけで


保留玉なんぼついてるか常に監視して


大当たり中に保留玉が3つついたら打ち出しを最弱にして、若しくは右打ちしてヘソに入らんように10カウントを消化させる。そこで次のラウンドでいざ勝負也。Vゾーンに玉が入ってから2秒以内にヘソ入賞ってのは、ラウンド開始して最初のVゾーン入賞の時だけだから。一旦Vゾーンに玉が入ってその後3つ目の保留入って、そのあとにV入って4つ目の保留ついても連チャンはせえへんのよ。だから保留玉が3つ入賞した時はそのラウンドは諦めて次のラウンドに勝負かけるわけよ。そういうことを知ってると多少は連チャン率がUPした。

 

2秒以内にってことが成功すると50%くらいは連チャンしたと思う。

 

そういうことが分かってからは、私は大当たりが発生しそうになった時は、保留玉が切れてるときは打ち出しを再開して保留玉を3つまでは溜めるようにしたんです。既に3つ入った状態で用意ドンで始めるのと、保留玉がない状態からスタートして徐々に保留玉が増えていくのとでは条件が違う。V入賞後に保留玉の3つ目が付いた場合には、アタッカーフルオープンして次の機会を待つという人もいたくらいだから連チャンの価値は推して知るべし。このようなときにもアタッカーフルオープンという攻略方法は有効な手段だった。して大当たりが発生しそうな時ってのは

 

7と
チェリーと
ベルと
BARでリーチがかかった時

 

アメリカンドリームの場合はリーチ頻度が大きく変わったので
SANYO
1000$
オレンジ
スイカ

 

はバカみたいにリーチがかかるから、リーチとなっても何も感じないんだけど(スイカはヤヤ熱)、7とチェリーとベルとBARは滅多にテンパらないんで、リーチがかかった時点で激熱。これが保留玉の4回目に出てくればほぼ当たり。実際にこれで外れたことは1度もなかったのでリーチとなった時点で保留を3つまでためるわけですよ。そして大当たり、アタッカーが開放していざ勝負也。アタッカーのVゾーンってのは入らなければパンクだから、元々入り易い構造になってまして、2個に1個くらいは入る感じ。だから先にVゾーン入るまでのハードルは低い訳。問題はそのあとの2秒間なんでね。ここでも回転率の良い台を打った方が連チャンもしやすいわけ。ヘソに入る確率は1/10だから、この2秒間でヘソへ近辺には玉が集まらんと無理だけど、スタートが悪いと当然この入賞率落ちるんでね。連チャンもせえへん訳ですわ。

 

アタッカーのVゾーンが1/2
ヘソへの入賞が1/10
ヘソ入賞は保留玉4つ目に限る
これを2秒以内にクリアせねば条件は満たしません。
クリアすれば50%で保留玉連チャンが発生する。


打ち方によって連チャン率がだいぶ変わる遊技機でした。

 

権利もののソルジャーには大当たり最終ラウンドでアタッカーフルオープンさせると連チャンしやすいっていう噂が流れましたが、私は一向に見向きもしませんでしたね。大当たり確率が1/280くらいでヘソの賞球はゼロだったのでギャンブル性が高いと判断してヤメ。いつの時代でも攻略法を使った方がお得なのか?使わなくても安全に勝てる台があればそっちの方がお得なのか?常に天秤にかけてたから


私はいつも安全な台ばかり也けり

 

そういうことで1992年からしばらくの間は、打ち方によって割数を大幅に上げられる機械が存在したのは事実です。いずれも知らなければ試す機会もないし、美味しい思いをすることもないので、パチンコ必勝ガイドは必読書也。ガイドにはお利口⇒オリジナル攻略法という概念が定着しており、読者から有益な情報が提供されればお金をフィードバックしてたのでその手の情報公開は大盛り上がり。然も専門の解析班という人もいたのでパチンコ必勝ガイド⇒パチンコで勝つためのバイブルに他なりません。

 

パチンコ必勝ガイドがキラキラと輝いていた時代です。


今のガイドに
そのキラキラ感がありますか?


ないでしょう?

 

保留玉連チャン機が登場したのは1990年代に入ったころからですが、初期で最も有名なのが麻雀物語。始めてのフルカラー液晶、保留玉4回転だけに訪れる激熱な瞬間はプレイヤーの心を虜にしましたが、同時期に大きな変化があったのはホールコンピュータの登場でしょうねえ。今のユーザーは遊技機の上に呼出ランプが取り付けられていてそこである程度の過去履歴を見れるのが当たり前になってますけど、ホールコンピュータが登場するまでは呼出ランプは係員を呼ぶだけの機能しかありませんでした。当然過去履歴もないし、今現在のスタート回数も分からない。何も分からないまんま盤面に向かうだけでした。これに関しては過去ログにも割と詳細に記載してますが、私が知る限り


ダイコク電機が初めてデータロボを設置したのは


1991年の12月、東海市にあるサンアポロというお店です。(今のバッファロー)

 

ホールコンピュータ自体は1980年代の後半に開発されてますが、本格的に設置されるようになったのは恐らくはこのサンアポロ以降。従って保留玉連チャン機が出た時点では、どこもかしこもホールコンピュータなどはなく、お店の割数だとか出玉率の管理は「釘師」に一任されてました。当然かなりの高給取りだったらしいですが、オーナーの意見を聞いてある程度方向性だけ定めれば後は好き勝手に釘調整をしておりました。好き勝手というと語弊があるんですけど、自身が体験した出来事がそれを物語っております。出ない台は大きく釘を開けても、爆裂するまで回りっぱなしだ った。何度も何度も、否何十回も何百回も経験しておりますが、遊技台が嵌り続ければずっと釘を締めなかったのでそこはそこ。釘師の裁量にはかなり自由があったのは確かでしょう。このような環境において、吾郎さんが気にしてる出率の管理というものは姿形なく、ただ単に


釘師の気分次第でした。


何せ割数は営業終了後に明らかになるとはいうものの、各台のスタート率は知る由もなく。オーナーが全部の台のスタート率を知ろうにもホール コンピュータによる演算結果が示されないので、分からないってのが現実。否釘師だけは分かってるけど、敢えてそんなこと店長にも、オーナーにも 報告せず、好き勝手に釘を弄ってたというのが正解でしょう。こと細かく報告すればなんでこの台だけ回るんやとか色々と痛いとこをつかれるので 釘調整に関してはあまり公にはしなかったはずです。ただお店の営業利益だけは確保せねばならんので


噴いたら締める 

噴かなかったら締めない


これが常識でしたね。


それでも当時はオカルト満載のお客ばかりだから、タコ回りする台が何台かあっても今みたいに専業が近寄って来るわけでもなく、軍団が湧く訳でもなく何も変わらない日常だったから、千円で25がボーダーラインと分かっていてもたまに50/Kの台があったんですよ。私のような悪代官だけが40/Kとか50/Kの台をぶん回しやるんでお店の英雄は私ひとりだけ。


悪代官ゴーニィの天下でしたわ。

 

ところがサンアポロにデータロボが導入されて、ホールコンピュータが導入されれば釘師の存在が危うくなります。


何故かというと

 

オーナーは釘師に任せてあるから大丈夫。てっきり全台同じスタート率かと思うてたら、台毎に全然違いますやん。今まではこの事実が公にならんかったけどコンピュータの処理によって全台のスタート率が丸見えとなり釘師は立場を追われることになっていきます。何のために高い給料で雇っているんか分からん?お前らにもう高い給料は払えない。この頃から徐々に釘調整する人が、釘師から店員、店長クラスの人へと変わっていきます。ホールコンピュータの導入が歴史を変えたのです。

 

ホールコンピュータが導入され始めた1992年から1997年までが転換期でしょうね。

 

1991年まで⇒割数は釘師の胸先三寸
1992年から1997年⇒釘師と店員による調整の混在
この6年間はラッキーナンバー制なので機械割数の扱いは容易ではない。
1998年以降⇒無制限営業。割数はホールコンピュータに基づいて店員が行う。



1998年以降のやり方が今に通じる。

 

こんな感じでしょうか。1997年に第1回のめりこみ対策が実施されパチンコを取り巻く環境は大幅に変化。国がパチンコ熱を冷まそう。否冷まさない限りギャンブル依存症患者は減らないと考えたので「回るパチンコ」から「回らないパチンコ」への移行。換金率が上がって回らんくなったからダメだという人が換金率を下げろ下げろと言いますがそれは土台無理。何故ならばこの国が換金率を上げて回らんくして、パチンコ熱を冷ましてギャンブル依存症患者を減らそうと思って真剣に取り組んだ措置がのめりこみ対策ですから。つまり回らないのはこの国の希望であり、方針であり、長年の夢でもあるのでその流れが元に戻ることは絶対にないでしょう。

 

従って1998年以降は噴いたから締める。嵌りまくってるから開けるではなくて、回り過ぎた台を締めるだけという流れになっていきます。問題なのは保留玉連チャン機がまだまだ存在してた1993年から1994年頃ですが、この頃の機械割数を求めるのはなかなか難しいです。何故ならば、客に依り、店に依り、店員に依り割数が変化するから。私は当時のラッキーナンバー制若しくは無制限札を貰った時は、出玉が壊滅するなと思った時は箱を使い切らずに、半分くらいは出玉を残したまんま


こうすることで札を維持したまんま
※ラッキーナンバー、無制限の札を刺した客が持ち玉遊技です。


買い足しに出ていました。客に依るというのはそういうこと。持ち玉遊技のアドバンテージを知っている客は札に拘るけど、そうじゃない人は札に拘らない。これで割数は変わります。無論そのようなお客さんを見つけた場合、見て見ぬふりをするのか、それとも厳正に札を取り上げるのかは店員に依って対応が異なっていましたし、店毎にも対応が異なっていました。箱の中に玉さえ残っていれば札を取り上げないお店もあったし、いやいやいや玉があってもなくなりそうなのに現金投資を続けている客がいたら札を取り上げる店もあったし対応は様々。基本的には持ち玉があるうちは持ち玉遊技ですが、持ち玉がなくなったら現金投資がルールです。

 

そのルールを逆手にとって、いつまでも持ち玉があるように見せかけようとするのが客


それに気が付いて札を取り上げる店


それに気が付いても黙認する店


色々です。


黙認してくれる店も結構あったので、私は躊躇なく最後の箱がなくなりそうになったら半分くらい残していつまでも買い足してましたが、そうしない客とする客とでは割数が変わります。勿論前者の方が有利ですね。ここら辺も技術介入なんで勝つためには手段を選びません。ですからラッキーナンバー制があった頃のパチンコホールの割数管理はかなり難しいんですね。客に依る、店員に依る、店に依るから。

 


1993年当時の戦闘MAPです。

 

 

当時岡崎の六名というところに住んでいました。名鉄東岡崎駅のすぐ近くです。ここから南西に下りてくるとまずは岡崎市の大動脈248号線と交差しますがそれを超えると、エルエルタウンに到達します。エルエルとは岡崎で有名なディスカウントショップ。今はホームセンターとイオンがくっついたような店舗形態になってるけど兎に角この交差点が熱かった。この辺一帯は優良パチンコホール激戦区でしたが、別けてもパーラーニューコスモは別格。コスモメインにしてメイホウとAパン777で大きな商いができました。ダジュールは昔はこんな名前じゃなかったけど忘れた。メイホウとAパン777はなくなってるし、コスモはコンコルドに変わるので昔の名残はない。

 

1992年の9月から翌年の8月までは日陰の身でした。シャープを退社した時にしばらく遊んでいようと思ったので、1年くらいはパチプロ生活を望み実際にその通り毎月50万くらい勝っていました。それを可能ならしめたのは何と言っても、ブラボーキングダムの存在とフルーツパンチの存在が大きかったのですが、そこはそこ。稼働の中心は保留玉連チャン機で確実に30万くらいは仕留めていましたね。つまりブラキンは余剰。あぶく銭で何をしてたかというと、岡崎市内の百々というところにクリーング屋さんがあってそこのネエチャンに入れ込んでましたわ。毎週のようにいくクリーニング屋さんに20歳くらいの可愛いアルバイトのお嬢さんがいたんで、この子目当てに足しげく通う始末。挙句の果てに、この女の子がホストクラブに行きたいとせがむので夜な夜な岡崎のホストクラブに行って遊んでたという次第。大抵はもうひとりの女のこと3人で(ふたりっきりにはさせんのや)、ホストクラブ行って毎回2,3万の金を俺様が支払うんである意味ヒモでしたね。自分が30歳くらいの時にハタチの女の子と夜な夜な遊ぶんでしゃあないっちゃしゃあないけど、

 

騙されてるのは分かってたけど騙されたふりをしてた。

 

こういう時女は必ず、男はアホウやなあと叱責するけれどそうじゃないんですよ。相手にその気がないことは分かってるけど、男はたった1回。たった1回抱くだけで気が済むのよ。その為に何十万も金をつぎ込むんか?って叱責されてもその為だけにつぎ込めるのですよ。そんなこんなでパチンコで不当に儲かった分は、このオネエチャンにつぎ込み、あとは生活費と貯金。毎月50万も勝ってたらホストクラブに入れ込んでもかなり貯金できましたわ。

 

パーラーニューコスモは兎に角新しい台が出ると2週間くらいは甘いんでそこで抜きっぱなし。フィーバーパワフル、サイドセブン、フィーバーキングその他諸々。1番稼いだ店ですね。ここが使えんくなるとしばらく西尾に遠征です。

 

 

パーラーニューコスモを西南の方向に車を走らせるとパチンコダルマというところに出てきます。ここは西尾の宝ともいえる激戦区。優良パチンコ店が10店舗もズラリと立ち並ぶ様は圧巻。私が1番メインにしてたのは、サンプラザⅡ。この中でMKとダルマはボッタクリ店。残りの8店舗数字の若い順番のプライリティでパチンコ打ってたけど、サンプラザⅡはパワフルと宝島(京楽)。ちょうどグランドオープンした時期でしたがここで夕方6時のグランドオープン初日で、宝島が777で当たり5回ワンセット。その最後の5回目にまたまた777で当たって9連チャンという思いでの深い店。サンパレス羽物しか打った記憶がない。ビタミンは3回制権利物。コンコルド西尾はパワフルだけ。MK、ダルマは打たず。ニューサンプラザはちょっとオープンした時期ずれてるんで内容は割愛。パチンコ太陽ではフィーバーキング朝から台の取り合い。太陽と丸万の間に1件パチ屋があったけど名前が思い出せん。ここでは竹屋の保留玉連チャン機神龍を打ってました。駅前のマルマンでは


エキサイトジャック


保留玉4個とも全て強制的な大当たりを誘発。保留玉1発目に連チャンした時は5連チャンの可能性大ありという優れもの。勿論4回ワンセット以外にもただ単なる保留玉連チャンあったけど何度かこの機械では5連チャンのあとにまたまた4っつ続いて9連チャンていうのがあったけど、ほんのちょっと出玉が少なかったんでね。あんまり好きな機械じゃなかったけど印象という点では思い出に残ります。ということで岡崎で食えんなあと思い始めた時は西尾に遠征してしばらくはそこにとどまるという感じ。この頃は末尾特定日のイベントなんかあらへんので、新台入替というのが大きな稼ぎ時でしたね。パチンコ必勝ガイド見ながらお宝、攻略法が使えそうな機械が出たらそっちを優先し、次から次へと新しい仕組み。新しい可能性を持った遊技機が登場するので打つ台には困らんかった時代です。

 

 

岡崎の第二の拠点。ここは六名から248号線を北上し矢作川沿いですね。


スターライトではアメリカンドリーム、JETではバレリーナとエビス。Aパン777ではブラボーキングダムがメインです。JETでは店長か釘師か知らんけどコイツと激しく争って打ってたってのは書いてきたとおり。エビスを打ってる時にコイツの戦略にまんまと嵌り悔しい思いをしたのが今でも忘れられない。


 

1993年のゴールデンウィーク頃から常駐し始めたのがパーラースーパードーム。今のオーギヤ。ここでアメリカンドリームで覚醒し保留玉連チャン機にてこの世の春を満喫しましたが、同店後半ではフィーバークイーンが登場したけどコイツは最悪やったわ。今でもクイーンのことをベタ褒めする連中が多いことを知っとるけどアメリカンドリームが1/229やのにクイーンは1/254やったから渋いのなんの。連チャン率も低いし、大して回らんし、大当たり確率の鈍いフィーバークイーンは当時の保留玉連チャン機としてはホンマに最低の部類やね。

 

クイーン打つくらいならまだキングの方がまし。


F.クイーンは大当たり確率1/254やけど精々30/K
F.キングは大当たり確率1/256やけど45/Kとか50/Kとか

 

当時パチンコ必勝ガイドでも安田プロがキングのゲージ特性について語っておりましたが、キングは風車からの右が水平プラスチック部分があってこの個体差でぶん回りする台がたまにありました。安プロは100回/K回る台を打ったと書いてましたがそれくらいキングには魅力的な要素があったけどクイーンなんてクソですよ。これがええええと言う人たちは、大体私等よりももっと後の世代。美味しい機械がなくなりつつある時代に生まれた人たちはクイーンを絶賛します。アメリカンドリームで沸きに沸いたパーラースーパードームのお客さんたちもみな


クイーンにはボロクソの評価でしたよ。

 

その年のお盆にグランドオープンしたのが三河安城駅のすぐ近くにできたM-1というお店。今はベガスに変わってますな。ここでプリンセス物語という台に出会って平和の3回ワンセット保留玉連チャン機の魅力を堪能します。ダービー物語から始まった保留玉3個め、4個め同時書き換えはプリンセス物語に引き継がれました。当時面接の為に東京に出張する機会があったけど、当時の東京は等価営業が主流でダービー物語の釘調整に辟易。千円で20回くらいしか回らんのとちゃあうんか的な奴ね。ヘソは平行以下?とも思えるほどだったので、この頃は間違いなく東京よりも愛知県の方がパチンコ打つのには都合が良かったと思います。

 

(1)麻雀物語⇒保留1~4ランダム
(2)フィーバーパワフルⅢ⇒保留1~4ランダム
(3)フィーバーキング⇒保留1~4ランダム
(4)フィーバークイーン⇒保留1~4ランダム
(5)麻王⇒保留1個目
(6)ブルーハワイ⇒保留4個目
(7)アメリカンドリーム⇒保留4個目
(8)ダービー物語⇒保留3個目と4個目
(9)プリンセス物語⇒保留3個目と4個目
(10)エキサイトジャック⇒保留4つ。5連チャン確定
(11)綱取物語⇒天国と地獄大当たり確率0
(12)ブラボーキングダム⇒天国と地獄大当たり確率0
(13)エビスシリーズ⇒7から始まる天国


11番以降は保留連ではないけど、当時は数珠つなぎ連チャン機と呼ばれていました。当時一世を風靡した13の機械ですが、このうち打ち手の技術介入余地があったのは


(5)、(6)、(7)、(11)、(12)だけ。知ってる人だけが得する時代でした。

 

次に割数ですね。

1991年まで⇒割数は釘師の胸先三寸
1992年から1997年⇒釘師と店員による調整の混在
この6年間はラッキーナンバー制なので機械割数の扱いは容易ではない。
1998年以降⇒無制限営業。割数はホールコンピュータに基づいて店員が行う。


1993年の4月後半に岡崎からちょっと北上した辺りにパーラースーパードーム安城店というお店を発見し、アメリカンドリームの異変に気づきます。ブルーハワイ以降、三洋の保留玉4個目の連チャン性能が強力だというのは広く知られていて、ブルーハワイ、アメリカンドリームは回らないが当たり前の時代にあって同店のアメリカンドリーム釘調整は異常でした。4月25日の夕方この店に来て278番で3万くらい勝ったのですが、翌日も同じ店、同じ台を狙いに行って的が的中しました。その時と5月4日の様子を画像として貼り付けますが、この内容はお店でメモしたのではなく、家に帰って大学ノートに転記したもの。店ではメモ取らず頭の中に記憶したデータを家に帰って思い出しながら転記した記録であります。

 

 

 



当時のボクは天才かも知れませんよね。これだけの情報量を記憶してたのですから。


それと4月29日に遊技した3日間を持って当時のことを色々と想像してみます。

 

※7がラッキーナンバー。1000$アンラッキーナンバー。

23/Kが当たり前のアメリカンドリーム。クソみたいに回ってますね。当たり絵柄で黒文字は1回交換。赤文字777はラッキーナンバー契機。青文字は持ち玉遊技中であります。現金投資で回した回転数が1737回で、持ち玉遊技で回した回転数が833回となっております。この日は朝イチにスイカで当たった時に今日はボロ勝ちかな?って思ってたんですけど初当たりは絶好調。最後10万円は勝ってるだろうなと大台を確認してから閉店ちょっと前に止めたのですが、背中後ろのオジさんと私とで出玉の競争みたいな気分。40台島のアメリカンドリームでしたが、この島で釘調整を見れたのは恐らくこのオジさんと私だけ。初めて会った人でしたが、この時点で既にお互いがライバルみたいに思ってて、それ以降も仲良くしていましたね。このおじさんの台が多分28回目の当たりを見てから私は帰りましたが、ということは既にこの店にはホールコンピュータが導入されてたということですね。自分の台が大当たり回数27回で、最後このオジさんに抜かれたがやって思って悔しかったので、恐らくは呼出ランプには大当たり回数が表示されてたと思います。


1991年の12月に東海市のサンアポロで初めてホールコンピュータが導入されて以降。日本全国にダイコク電機のホールコンピュータは広く導入されるようになっていったと思いますが、この時期。1993年の4月には既にかなりの店舗で導入されてたのではないでしょうか?まだまだラッキーナンバー制の時代ですが、ホールコンピュータによる割数管理はどうだったのかですね。

 


 

お次は4月29日。自分が書いた日記によると、この日はゴールデンウィークということを知らずにお店に来てやけに人が多いことに気付いた次第。プー太郎生活満開で平日と土日の区別がつかなくなっていた自分は平日だと思って来てみたら唖然とし出遅れます。その為この日は台選びに失敗してますが、回りませんでした。回らん台しか残ってなかったんですけどやっぱりゴールデンウィークに突入したということで釘が締まったんじゃないかと思います。4/26では7.4も回ったのにこの日は6.3程度。今も昔も平日は回すけど、ゴールデンに突入したら激締めってのは同じですね。

 

 

これが問題の5月4日。大昔書いた通り。この日はレスラーみたいな体格の人と台の取り合いになることが分かってて私は景品交換がある入口で並んでたけど、そいつは裏手の入口に並んでスタンバイ。用意ドンで店にはいるとあいつの方が少し早かったけど、俺はそんなことはいさい構わずレスラーをめがけてラクビーのタックルよろしく体当たりでそいつをぶっ飛ばす。店の片隅までぶっ飛ばしてそこで寝てろと言い放って遊技を開始したわけ。ぶっ飛ばされたレスラーが怒ってこっちに来たけどそんなもん無視してやり始めると当たりまくったという1日。当時は自分さえ勝てれば人のことなどどうでもよかった。否、今でも自分さえ勝てればええんだけどね。

 

勝負ごとに対する執着心は半端ないのでこのような行動に及ぶけどそういうのが許された時代やったかな。俺も大人げないけど、この時の勝負はどっちが引くか引かんかという戦いなので、引いた方が負け。時にパチンコは体力を必要とする。そこでの台取り合戦に勝利した俺は、その後の確率との勝負でも大いにつもりまくってのっけからラッキーナンバーから始まるという大ラッキーの上に、途中で9連チャンというのがあって周りの人たちからは羨望の眼差し。勝てれば何でもええんの精神は当時から、半端なかったなあ。


結局37回当たって143800円の勝ち

 

 

結局この3日間では33万勝ちですが、実際には4/25から5/4まで毎日通って毎日勝ったのでもっと勝ってます。ただし4/25とか4/26まではかなり大盤振る舞いだったのに、ゴールデンウィークに突入してすぐ回転率が落ちていますね。最初は7.4から始まった勝負ですが、黄金期間中は6.3から6.4くらいまで落ちてるので釘調整、割数管理はやってたと思います。ここでの注目はラッキーナンバー制度が割数にどのような影響を及ぼしたかですね。この3日間の合計では現金投資によるスタート回数が5068回転で、持ち玉遊技中によるスタート回数が2747回転ということで全体の65%が現金投資。35%が持ち玉遊技となってます。それを客滞率で見てみると僅か153%という低い数字になってるんでラッキーナンバー制度というのはお店にとっては稼ぎやすい環境。ただしこの3日間のスタートを見てると還元日が7.4でそれが6.3とか6.4まで下落。この時のヘソの賞球数は7個なんですけど、それが今は1個。30年経ってヘソの賞球数は激減したけど、スタートはあんまり変わってないってのが分かると思う。

 

持ち玉比率⇒現金65対持ち玉35
若しくは客滞率150%

 

この辺の数字を目安にして、ボーダーラインを計算し割数を求めていたのかなあと推測します。

 

それが打ち手の技術によって、連チャン率が変わるとか出玉率が変わるということで、お店の割数に影響を及ぼすのかどうかということが吾郎さんが知りたかったんでしょうけどこれについては


(1)攻略方法が公知で攻略成果が高い場合
(2)攻略方法が公知で攻略成果が低い場合
(3)攻略方法が人知れず攻略成果が高い場合
(4)攻略方法が人知れず攻略成果が低い場合


これによって変わります。(1)の典型はブラボーキングダムですが、この機械に関しては攻略されることを見越して割を下げてました。Aパン777の場合は、攻略OKだよとお店が看板で告知してたのでクソ回らんくなっとったし、そうじゃない店は攻略禁止の張り紙。(2)の典型は麻王ですが、この機械は多分割に影響を及ぼさなかったんじゃないかと思うんです。連チャン力があまり強力じゃなかったんで店は無視してたと。


(3)典型はフルーツパンチですけど、この機械は遊技機の性能を逆手にとってわざとタコ回りさせる店があったので、この機械については対応は店に依りますね。攻略法がありながらそれを使ってる客が殆どいないような場合は、メチャクチャ美味しかった遊技機であります。(4)の典型はアメリカンドリーム。これは攻略といっても偶然に期待するところが大きいので、店は割数には勘案しなかったと思う。私の上記3日間データでは初当たりが51で連チャンが41も取れてるんです。Vゾーン入賞後2秒以内に保留玉4つ目をヘソに入れるという難題。これをクリアしても保留玉連チャン率は50%しかなかったのに、私の場合は44.6%の割合で連チャンに成功。

 

メッチャ上手いですやん。ゴーニィさん。

 

大当たりするたんびに。殆どの機会で2秒以内にヘソという難題をクリアできてると思います。それができたのは、大当たりしそうになったら保留玉3個目までは入れておくという下準備があったればこそ。職人技でございます。因みにこのような攻略法はパチンコ必勝ガイドの中ぐらいでしか公にはなっておらず、知らない人は全く知らず存ぜず。無論店も普通はそんなこと告知しない。ブラボーキングダムの天国と地獄も一旦地獄に落ちれば元に戻せるなんてどこにも書いてないし、ある程度のヒントはガイドに書いてるけどそこから先は各個人の技量に依るし、当時ブラキンの地獄を天国に戻すなんて離れ業は私とじゃじゃさんくらいしか思いつかない。アメリカンドリームの当たりそうなリーチ来たら保留3個目までは入れとくってのも私が勝手に考案した方法なので。ある程度のヒントは公になってるけど、そっから先は各々の技量に依るってのが真実でした。やれば得する方法は沢山あった時代なれど、それをどこまで正確に理解し実行できるかは巧拙の分かれ道だったと思います。当たり前田のクラッカーだけど、攻略がある事。攻略方法の手順とかマニュアル。そんなもん店内で告知する訳ない。基本攻略という概念は遊技機にあってはならんが当たり前だし、そんなもん保通協が通すわけないでしょって世の中だからね。それを突っつく機械ばかり狙って、世の中に出てきたってことが凄いけど。

 

これでほぼ吾郎さんがお尋ねした要求にはこたえてると思うんですけど、9/21の彼のコメントを見た時またこの話なのかと落胆しました。彼にしてみれば初めて質問するんで意気揚々でしょうけど、私にしてみれば

またこの話か。

また同じ話を書かんならんのか。

今までに何度も書いてきたやないか。

 

大体10年もここで物書きをやってるという事は、パチンコに関するありとあらゆる事を書いてきたと想像できると思うし、既に過去ログに似たような内容はあるやろうなあって思わんか?大抵の凡人は過去の話を聞きたがるし、昔話に花が咲く。保留玉連チャン機の時代。一発機の時代。攻略法があった時代。そんな時代の話聞かせてよっていう奴ばっかりやけどそれがどいう意味かはよく考えて下さい。何度も何度も同じことを言わせないで。過去ログを探せばきっと貴方が知りたい記事に辿り着くはず。とはいうものの、今回吾郎ゴロー様が心の中でモヤモヤしてた内容にピタリと答える為には、過去に書いた記事を全部まとめて結論付ける必要があったので新たに文章を構築し直しました。このような要求にこたえたのは、これまでの彼の功績と思って頂きたい。普通の読者様にはおととい来やがれです。


今後保留玉連チャン機のことを聞いてきたらこの記事見てよというつもりなので当記事を保存版に置いときます。

コメント

  1. ゴーロ吾郎より:

    かぐや姫の求める5つの難題の如く大変な要求をしてしまった事に反省しつつ、当時の貴重な話を聞けて満足な吾郎です。こんにちは!

    最初から最後まで私の聞きたい話だらけでした。本当にありがとうございます!(特にフルーツパンチの話はとても楽しかった)
    感想を逐一書くと長くなってしまうので記事を求めた経緯を少し書きます。

    私のパチンコ参入した時期は爆裂連チャン機(源さんとか)が外される直前くらいでした。保留玉連チャン機も必勝ガイドで存在は知っていたけど実物を見た事はありません。仕組みもGO兄さんのブログほど詳しくは書かれていなかったけど凡そのことは書いてありました。

    いまさら復活しない保留玉連チャンの仕組みをなぜ知りたいのか?と言うと実際には仕組みというか当時の話が聞きたくてお願いしてしまいました。
    もちろん設置機械として認められて世に出てきてるのにメーカー自身がなぜ仕込んでいるんだ!?という疑問もあったのですが、、、。

    ネット記事とか読み漁ってもどこもかしもどっかからか引っ張ってきた記事に加筆したり口調を変えて掲載しているだけでリアル感がほぼ無しでして…。
    正確性とかは過去の話なのでそこまで求めないものの、なーんも当時の様子が読んでいても浮かばなくて 私の知りたい欲求は空腹でした。

    その点 GO兄さんは正確かつリアル感たかし!なので無理を頼んで正解でした。重ねて御礼申し上げます。

    (全くパチとは関係ないですが当時もホストクラブってあったのですね 結構驚きです)

    2023年10月1日 PM 12:54
  2. ゴーニィ より:

    ゴーロ吾郎

    お腹がすいたよ。ゴーロ吾郎。

    お客様は神様です。

    吾郎、亀、ユリア、夢ちゃんに書いてと頼まれたらしゃあないっすね。古い話は何度も書いてきたのでもうこのくらいにしてよ。


    コメントをじっくりと呼んだ時に期待に応えるための筋書きはハッキリと浮かんだんですけど、いっこだけ足りませんでしたね。メーカーが意図的に当たりをぶち込むのは今の遊技機開発と同じですよ。

    突確の割合を高くして確変率が高いと思わせる。
    76%の継続率を2800入れて81%に見せかける。
    継続率低いのに継続率がメッチャ高いと思わせる。

    ただそれが犯罪となるのかならんのか。


    保留玉連チャン機の強制誘発は犯罪とみなされて、パチンコメーカーの社員(平和)が逮捕されるという史上最悪のことが起きました。

    ダービー物語事件です。

    ただしこの時代の話はネットで調べてもどこか知ったかぶりで本質が見えてこず。数年前にきーうぃさんがともぞうさんにこの話を振って、無理やりネットで調べました的な記事を書いたことがありましたけど、本質とはかけ離れた内容。


    最低な記事でした。


    何事も実体験に勝るものはなし。

    知ったかぶりほど哀れな記事はない。

    2023年10月1日 PM 2:54
  3. 村上亀吉より:

    ゴーニィ様
    怒涛の連投ご苦労様です

    「アメリカンドリーム」のタイトルで、これは大谷選手の詳細な分析記事だろうと思った私は当時、ビッグシューターばかり触っていて、雰囲気が違い過ぎるアメリカンドリームやアレジンの島へは近付かず終いでした

    当時、私は繁華街の外れの飲食店に勤めていてディナーの仕込みとランチ営業が終わると寮で仮眠するかサウナ併設のパチ屋に行くかと言う気楽な20代でした
    当時は、先輩がアレジンで1週間に50万溶かしたり(笑)サラリーマンも日常的にパチンコの話をしたりと寛容な雰囲気でしたが、最近はタクシーの運転手でもパチンコの話題は少ないです

    当地では元々、繁華街に大型店は無くこの30年で更に郊外大型店にシフトが進み中心部のパチ屋は激減してしまいました

    禁煙化の流れで唯一、喫煙が出来るスペースでしたが最近は灰皿も軒並み撤去され昭和平成は遠くなりにけりと言う感じで、若者向けの品揃えばかりの繁華街にわざわざ出掛けるのも何だか億劫になってしまいました

    日常的に運動を心掛ける方は違うのかも知れませんが、50代以降は慢性的な疲労感を感じる人が多い様です

    今回は日記の様な取り留めのないコメントになってしまいました
    ゴーニィ様もお身体お大事にお過ごしください

    2023年10月3日 PM 2:46
  4. ユリアより:

    ラッキーナンバー制というものが何なのかさっぱりですが、決まった図柄で当たれば持ち玉で遊技できるということでしょうか。

    昔は良かった。とか
    昔の方が良かった。とか
    が無いのが読みやすいです。
    高田純次がテレビで昔話自慢話説教の3つはするなと言っていましたが、そのような感じがなく淡々としているのが好きです。
    またこの数十年後には今の遊技機が懐かしくあの時(P機)は良かった。なんてことになるのでしょうかね?

    2023年10月3日 PM 7:14
  5. ゴーニィ より:

    村上亀吉様

    アメリカンドリームから大谷の記事に発想を飛ばすやなんて。

    相変わらず粋ですわ貴殿は。

    おふくろに会いに行きたいと思っているんですが、なかなか日程が組めません。今年の夏は暑すぎたから。香川に帰省したらその延長で福岡まで行きたいと思ってるんですが、そうなればツイッターにダイレクトメールを送ります。なにとぞ。

    2023年10月3日 PM 7:54
  6. ゴーニィ より:

    ユリア様

    昔は良かった。

    みんな腹ん中では思ってるんですがね。こういうことろで記事する時それをいっちゃあおしめえよ。過去を振りかえっても1銭にもならん。パチンコは昔を振り返れば昔の方が勝ち易かったのは決まってる。

    でもそれじゃこれから食ってけん。

    今をどうするか。将来をどうするかを常に考えていかんならんので過去の話をするのはご法度。

    パチンコで昔は良かったーって話をする奴は、殆どヘタクソな人間。これからをどう生きるか。これからをどう乗り切るかができる人とできない人。過去ばっかり見てたらなあんにも思いつかんて。


    昔を語る語り部にはなりたくない。

    自慢話と過去の話と説教は確かに良くない。

    ゴーニィ様は昔は女性にモテたという武勇伝ばっかりしなさるが、あれはモテたというよりは振り回されただけなので実際には女の子にモテたという時期は大学の2年と3年の時だけ。それ以外はからっきし駄目ですから。そして今はもう立たんし。

    2023年10月3日 PM 7:57

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