巨人の星
長嶋茂雄さんが逝去しました。悲しいけれどいつかは訪れることなので、ここ最近はその時がいつになるのかと思っておりました。自分が野球を観るようになった頃は既に長嶋さんは全盛期ではなかったので、選手としてはあまり良い印象はないんですけどその後の監督人生15年間をつぶさに観ていると私なんかがあれこれ言うのは間違いだなって思いました。
凡人発想ではなくて
雲の上の人
常識では測れない人でしたから良くも悪くも長嶋さん=読売巨人軍。ニッポンのプロ野球がここまで栄えたのは長嶋茂雄がこの世に生まれたからなんですけど、
川上哲治でもなく
王貞治でもなく
イチローでもなく
大谷翔平でもない
長嶋さんは唯一無二の人。彼こそが世界一のスーパースターだと思ってるし、長嶋茂雄がいたからこそ今の高校野球も栄えるし、プロ野球も栄えるし、オリンピックでも勝つし、WBCでも世界一になれるようになったと思ってる。
選手としては王さんの方が偉大だったけど、影響力は長嶋さんかな。
1973年巨人がV9を達成⇒長嶋は骨折して日本シリーズには出れず
1974年巨人がV9を逃がす⇒長嶋の引退。有名な引退セレモニースピーチ
1975年巨人が初めての最下位⇒長嶋監督1年目
1976年巨人がV奪回⇒張本が首位打者を逃がす
1977年巨人がV2⇒張本が首位打者を逃がす
1978年ビッグレッドマシン旋風⇒11月21日江川事件
1979年長嶋監督5年目⇒江川卓入団
1980年第一次長嶋政権終了⇒王貞治引退
私が野球を観るようになったのは1973年からだけど巨人が強かったのはV7くらいまで。この年は阪神の猛攻勢にあってその原動力は藤田平と田淵幸一だった。その年の8月5日に世紀の大落球事件があって巨人が奇跡的に9回表に勝ち越して勝利を掴んだ訳ですけどコアな阪神ファンは未だにそのことを根に持っていて「池田が落球しなければ」阪神が優勝できたって思ってる。この年は巨人と阪神が10対10の引き分けってこともあったし。甲子園で田淵に1日に5本ホームラン打たれたこともあったし、巨人ファンとしては戦々恐々の思いで過ごしたけど最後の最後で巨人がヤクルトの松岡弘に押さえ込まれて1-2で負けた時、あーあって思ったよ。今年は阪神の優勝。其れが星野仙一の力投で4-2と勝利し息を吹き返した巨人は最終戦で9-0で勝ってV9を決めたのだった。
翌年は中日の勢いを止められず、ID野球の川上がID野球の申し子与那嶺に敗北しV-10はならず長嶋が引退。
この時のセレモニーがあの名言だった。
プロ野球選手の引退スピーチで最も感動したと言われてるのがNYヤンキース。ルー・ゲーリックが現役を引退した時のスピーチで「私はこの世で最も幸せな男です」。彼は現役後半で難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患いしばらくして命を落とすことになる。引退セレモニーはなくなる2年前。この時は既に病気であることは観客も皆分かっていた上でのスピーチであり、彼のセリフは観客の心をとらえのちに、世界一感動したスピーチといわれるようになりました。メジャーではルー・ゲーリックかも知れませんが日本では私は長嶋さんのスピーチが最高だと思ってますね。
引退してすぐに監督になるんですけど、川上哲治の後任となると荷が重かったように思います。自分がスタメンにいないということもあったし、長年V9を続けてきた勤続疲労みたいなものがどっと出て監督1年目は敗北。1975年は読売にとって屈辱的なシーズンとなりましたが、これは長嶋監督だけのせいじゃあない。其れまでの巨人軍は12球団で唯一外国人選手を獲らない「純血主義」。其れが故に外国人を獲得するパイプなく、獲ってきたのはデーブ・ジョンソン。
この人が読売巨人軍として実質初めての助っ人。投手では昔スタルヒンってのもいたけどね。
ただ今振り返るとジョンソンは1973年にアトランタ・ブレーブスで打率.270、本塁打43、打点99という成績を残してるからフロントとしては精一杯の努力をした結果獲得した選手だと思うし、長嶋が抜けたサードをジョンソンで埋めるつもりだったけど、ジョンソンは全く打てず打率.197、13本塁打で終わった。今まで外国人選手を獲得してこなかっただけに、ジョンソンの今を知る情報力に乏しかったのかもしれんけど、川上監督が辞めたあとには巨人の残骸ばかりが残ってて春先から負けまくった長嶋巨人は結局セ・リーグの最下位に甘んじて読売巨人軍はかつてない危機に陥りましたね。
長嶋の代りがいなかった為に負けたと認識したフロントはパ・リーグから張本を獲得し、巨人打線はかつての輝きを取り戻し翌年には1位に返り咲いたけど、日本シリーズでは2年連続して阪急には敗れます。V9時代に散々戦ってきて悉く勝利してきた阪急が相手ですが、西本監督から上田監督になって巨人は勝てなくなってしまいました。1976,77年の日本シリーズは足立の変化球に翻弄されましたね。打てなかったですわ。この2年間で首位打者を獲るはずの張本が2年連続して試合消化率のせいで、首位打者になれず、巨人ファンとしては憤慨したけれどこの辺から徐々に徐々に、日本のプロ野球に嫌気がさしてきて
メジャー・リーグへと気持ちが傾いていく。
翌78年にシンシナティ・レッズが日米野球で来日してビッグ・レッド・マシンの猛威。メジャーってすごいなあって思ってる矢先にあの忌まわしい「江川事件」が起きたものですから、巨人ファンとしてはいたたまれない気持ち。NPB⇒MLBへのきっかけになった事件じゃないかなって思ってるけれど、あの事件の事を知らない人たちは日本のプロ野球の本当の恐さを知らない。その2年後に王貞治が引退していよいよ日本のプロ野球も終わりだと思った。
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野村克也のID野球
バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発
吉村、原、クロマティが其れに負けじと対抗する
星野監督が落合博満を獲得する
ナゴヤ球場での観戦が始まった。
1992年第二次長嶋政権誕生が決まった直後、ドラフト会議。運命の松井秀喜は長嶋茂雄が
引き当てた。
1994年10.8決戦。
この試合の1ヶ月くらい前に、田舎のおふくろが勝手に見合いの話を決めていて10/9(日)に初めて会う約束をしていました。当時は既に今の嫁に出会っていたので、会ってもお断りする腹つもりであり、母が勝手に決めてきた顔を立てるだけの形式的なお見合いですが、まさかこんなことになるとは思っていなかったので当日はどうしようかってとこ。春先からずっと好調だったのでぶっちぎって優勝するものと思ってたけど、後半負けが込んで中日と同率の首位まで追い詰められて両チームともに69勝60敗で最終戦の名古屋で勝った方が優勝という大一番でした。本来なら家でゆっくりテレビ観戦してたと思うけど見合いせねばならん私は新幹線に乗りこんで、車中のテロップで途中経過を知るだけ。気が気ではありませんでしたが、何故かその日は巨人が勝つだろうなあって思ってたけど、試合が進むにつれドキドキしてくる。家に着いたときは既に7回まで進んでおり、四男坊にその日の経過を教えて貰いながらテレビの前に座ると既に桑田がスタンバっていました。
桑田VS立浪の闘志あふれるヘッドスライディング
川合のセンターバックスクリーンへのスタンドインが何故かボールが跳ね返って三塁打になる判定
結局判定は覆らず6対3のまま9回裏
桑田が見事に抑えて巨人の優勝でした。
この勝利がよほど嬉しかったのか、翌日のデートの際には相手は岡山県民だから絶対巨人ファンやねって思って「昨日は…」って言いかけると、「何いいいいいい?昨日。巨人?」
てめえ巨人ファンか?って突っ込まれて、「私は大のアンチ巨人なんだわね」と言われて、江藤、落合の次に広澤まで獲るんか?って怒り心頭のご様子。もうデートどころじゃない。ずーっと巨人が嫌いなことを力説されましてん。江藤、落合を獲っただけでもセ・リーグの4番をかき集めとんのに広澤まで獲ったらどうなるんじゃ。
うーん。江藤は眼窩底骨折をして以降は広島時代の輝きはないし、何よりも広島の4番から巨人の4番ってことで重圧に押しつぶされて異彩を放つことはできなかった。落合はまだ3割を打てる技術はあったけど既に40歳くらいだからおそるるに足らず。広澤に至っては打率.270、25本、80打点くらいの普通の野球選手やさかい巨人に来ても来なくても殆ど意味がないと思ってたので、何をそんなに心配するん?って思うとったけど、このお嬢さんには気に入らんかったらしいわ。歳の頃はまだ27歳くらいやったと思うけど、27にもなって人生の伴侶を野球の好みで左右するんか?って思ったから
※江藤の巨人入団はもっと後でしたね。落合、広澤、江藤、清原の順。
この女は相手にでけん。
別れて家に帰った直後に電話がかかってきて「お前断ってきたぞ。巨人ファンとは結婚できんて」。
せやろな。最初から結婚する気ないしな。どうでもええけど、巨人ファンという理由だけで断ってきた態度が腹立つ。大体香川出身で今は愛知に住んでるけど、香川県民の95%は巨人ファンって知ってるくせにお見合いの話を受けたということは、相手も最初から乗り気じゃなかったけど、ご両親に頼まれて義理でお見合いしたんやな。そう思うたから水に流してやるけど当時は腹立ったわ。
1993年第二次長嶋政権誕生。ドラフト1位で松井秀喜入団。
1994年落合博満を獲得。松井のあとに落合が居座り巨人の打線に光
1995年広澤克己の巨人入団⇒この年の優勝はヤクルト
1996年10.6決戦で巨人の優勝。松井の打撃開眼38本塁打
1997年ヤクルトの優勝。ホームランキングはヤクルトのホージー
1998年横浜マシンガン打線。槇原の抑えが決まらず長嶋采配批判の的
1999年ナゴヤドームで初めて中日が優勝。最後は山崎のサヨナラ3ラン
2000年ギャランドゥーギャラードから9回裏4点差を逆転で巨人が優勝
2001年長嶋監督の最後。
この9年間は巨人とヤクルトが交互に優勝。9年間でヤクルト4回、巨人3回、中日1回、横浜1回
2002年は原監督の日本一。松井の最後の年となり翌年はNYYへの移籍。これを持ちまして1973年から30年応援し続けた巨人ファンとは縁を切り、私は日本のプロ野球には一切関知せず。2003年以降はMLB一筋
2003年から2009年までNYYファン
2010年LAAファン
2011年から2017年野球から興味がなくなりました。
2018年から2023年LAAファン
2024年から現在LADファン
元々絵心はあったけど、音楽の才能ゼロ、運動神経ゼロなのでスポーツには関心がなかったけどテレビで巨人の星を観るようになってから読売巨人軍という存在を知り、徐々に野球のことに興味を持つようになっていった。小学生4年まではスポーツをやるとしても仲間内と相撲を取る程度だったけど、小学生5年から体育の授業でソフトボールを経験し、野球の面白さを知り近所の子供たちと区内でのソフトボール大会に出ることに執着し始めたことがキッカケ。
小学校5年の頃には
1番に三男坊を置いて強肩レフトを守らせた。
3番がボク(ピッチャー)
4番にホームラン打者の木田君を置いてサード
大体ソフトボールってのはピッチャーとサードとレフトだけを固めておけば大丈夫だから。身内の弟は強肩で足も速かったので1番に抜擢し、3番、4番が強打者。当時の僕はプロ野球選手に例えると「榎本喜八」タイプ。引っ張り専門でライナー打球ばっかり。強い打球を1塁線、1、2塁間に飛ばすので殆ど塁に出てたけど、其れを木田君が返すという打線。中学に入ると野球部に所属して一応2年半やらせて貰ったけど、自分には野球の才能ゼロだなってことを認識し進学校への高校受験勉強に目覚めます。才能があれば高松商業に行きたかったけど、野球の才能がないことに気付いたので坂出高校やね。
従いまして、巨人の星というアニメがなければ私は野球には興味がなかったでしょう。
巨人の星に出てくる川上哲治。長嶋茂雄、王貞治。V9メンバーの活躍。そういった知識を植え付けられなければ巨人ファンにはならなかったんじゃなかろうかと思うけど、このアニメの影響力は絶大でした。1969年の日本シリーズ第4戦。阪急優勢で進んだシリーズの流れを変えたのは土井の好走塁だったってことを教えてくれたのは、巨人の星の中で其れを語るシーンがあったればこそ
ノーアウト1,3塁からダブルスチールで土井がホームスチールを敢行。キャッチャーが完全にブロックし捕手岡村はアウトと思ってたけど主審セーフの判定で激高し、岡村が退場となった出来事。この一件により流れが阪急から巨人に傾いて巨人はV5を達成した。1969年の日本シリーズのMVPは土井正三でした。
今度は1971年の日本シリーズ第3戦。8回まで2安打ピッチングをしていた阪急のエース山田久志。当時はクローザーという役割はなく先発完投が普通の出来事だったので、この試合は山田が完封して終わりという事なんですけど、9回の裏に柴田が四球を選んで長嶋。しぶとく転がした打球がショートの右を抜けていきツーアウト1,3塁で王貞治ですよ。日本シリーズ最高傑作といわれるこの試合は後世に語り継がれることになったけど、こういったV9戦士の活躍は、巨人の星の中で登場したことに依り私は知るところとなりました。
王の逆転サヨナラ3ラン。
私はこの出来事を生で見ていた訳ではないけれど巨人の星で知った訳です。小学校5年の時にクラスで何らかの発表をしてくださいって言われたことがあって、困った僕はとっさにこの出来事をあたかも自分が見ていたかのようにクラスの壇上でみんなの前で、この時の状況を実況解説したんですよね。
1971年日本シリーズ第3戦。場所は後楽園球場。この試合は阪急の山田久志が絶好調で巨人打線を寄せ付けません。9回裏の土壇場で柴田が歩いて長嶋が二遊間を破りツーアウト1塁3塁となりました。ここで登場したのが王貞治。カウント1ストライク1ボールから3球目を、打ったー。打球はライトスタンド一直線。入りました。王のサヨナラホームラン。サヨナラホームランです。
そんな感じ。
小学校5年の子供が、みんなの前で何かしゃべれと言われてこの場面を話す子もどうかと思うけど、其れくらい巨人の星というアニメには影響を受けてたし、V9を達成した巨人のメンバーには憧れの気持ちを抱いていた。だからこそ、巨人の星というアニメがなかったら僕は
野球をやってないかも知れんし
巨人ファンにもならなかったかも知れん。
僕が巨人ファンになったのは、巨人戦しか野球中継がなかったとか、香川県民は皆巨人ファンとかそんなんじゃない。ただ巨人の星というアニメに影響を受けたから、野球に関心を持つようになったし、V9を達成した巨人にも惹かれるようになっていった。キャプテン翼に憧れてサッカーを始めるように。スラムダンクに憧れてバスケを始めるように、僕は巨人の星に憧れて野球を始めるようになりました。ただ野球を始めたとは言うものの、野球の才能がなかった僕はプレイよりもスコアブックを付けることに興味を持ち始めてデータ分析をする方が向いているって気付きましたがね。其れが故、打者の打率を計算する方法とか、投手の防御率を計算する方法とかに執着するようになり
統計好き
計算好き
の性格は野球を基にして培われたように思います。
思い込んだら試練の道を
行くが男のど根性
真っ赤に燃える王者のしるし
巨人の星を掴むまで
血を汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ
星飛雄馬⇒高橋一三
花形満⇒阪急のスペンサー
左門豊作
アームストロング・オズマ
伴忠太
単なるスポ根ドラマではなかったと思いますね。このドラマの良いところは、野球を基礎から学べる点があったこと。確かにオズマの見えないスイングとか、大リーグボール1号、2号、3号はオカルト満載の架空話でしたが、先ほど申し上げた日本シリーズでの土井正三のホームスチールがシリーズの流れを変えたとか、V9を成し遂げたのには、王、長嶋のようなスター選手だけでなく川上哲治の采配と其れを下支えした牧野の存在を知らしめてくれたので野球を勉強するのに一役買ったわけ。大リーグボールを操る星飛雄馬が主人公のドラマだったけど、彼が投げる速球はボールが軽い?
ボールが重い?
ボールが軽い?
って事を考えさせられたドラマでした。
ボールが重い軽いって事が物理的にあるはずないんで、早速兄貴と相談して家族会議です。兄が言うには軽いボールってのはスピンがかかっていて。回転数が多いからなかなかボールが落下せず、ホップしたみたいな錯覚に陥りバットが空を切る。重いボールはその逆で回転数が少ないからほんの少し沈んで当たっても打球が遠くまで飛ばない。
軽いボール⇒回転数の多い真っ直ぐ
重いボール⇒回転数の少ない真っ直ぐ
軽いボール⇒空振りが多いけど、当たると飛ぶ
重いボール⇒空振りが取れないけど当たっても飛ばない
ここで重いボールの代表格はロッテの村田兆次。村田の球はホップするようなボールではなくて低めにズドンと来る感じ。実際に私が打ったことがないので重いか軽いかは分からんけんど彼のボールは重いことで有名だった。反対に軽いボールの代表格は江川卓。江川が高めに投げたボールは悉くバッターの空を切った。空振りの山。だけど当てられると結構ホームランになったんだよなあ。ここまで論じていると、軽いボールの正体はスピンのかかった回転数が多い真っ直ぐで、重いボールの正体は回転数の少ないボールってことになるけれど、もしかしたら
軽いボールは4シームで
重いボールは2シームなのかもしれん。
真っ直ぐ、ストレート、速球⇒4シーム
シンカー⇒2シーム
ボールを握る時に縫い目を4か所引っ掛けるのが4シームで、縫い目を2か所引っ掛けるのが2シーム。どちらも真っ直ぐであることに変わりはないけど、2シームの場合はシュート回転しながらボールが沈むのでシンカーと呼ばれる。MLBの公式名で
4シーム
シンカー
スライダー
カーブ
ナックルカーブ
チェンジアップ
スプリット
1番被本塁打が少ないのがシンカーである。シンカーの使い手で有名なのが、グレッグ・マダックスと王建民だけど両投手とも被本塁打は少なかった。だから重いボールの正体はシンカーなのかもしれません。未だに重いボール、軽いボールの正体は分からないのですが、未だに分からないような複雑怪奇な事を小学3年生に投げかける訳ですから、梶原一騎もどうなんやと思うわ。巨人の星は子供から大人まで観ていた番組ですが、当然子供達が観ていたら重いボール?軽いボール?って言われてもさっぱり分からへんし謎だけど、兎角このドラマは星飛雄馬が主人公だけど、彼の致命的な欠点は
球質が軽いことで一貫していた。
星一徹が巨人の星に育てるべく、部屋にはボールが通るだけの隙間として穴をあけて、身体には「大リーグ養成ギブス」を装着。ギブス付けたまま生活するので、肩が鍛えられて速い球を投げられるようになった。部屋の穴めがけて飛雄馬はボールを投げ込み、穴をすり抜けた球が部屋の外の木に当たり戻ってきてまた穴を通過して飛雄馬の手に戻る。物理的には有り得んような事を毎日やっていて針の穴を通すようなコントロールを身に付ける。ある日飛雄馬の噂を嗅ぎ付けた川上が、部屋の外にあった穴から中を覗くと飛雄馬がボールを投げてきてとっさに身をかわす。川上は手に持っていたバットでそのボールを打つと、その狭い小さな穴にボールが貫通し飛雄馬の手に戻ったのだった。返ってきたボールの勢いがいつもと違うと感じた飛雄馬が外に出ると
川上哲治がいた。
こんな練習を毎日やってたから飛雄馬の速球とコントロールは鍛えられていったが、球質だけは鍛えることができなかったと星一徹が嘆くシーンがありました。球質が軽いことをライバル達に見破られた飛雄馬は、花形と左門を打ち取るために
大リーグボール1号を開発するのです。
従いまして球質が軽いから、星飛雄馬はプロとして通用しない。軽い球質でも打者を抑えるために大リーグボール1号、2号、3号へと物語が進んでいきます。球が軽いとか重いって言われると、物理的な答えを見つけられない小学生は、答えを何とかして見つけようとしてこのドラマに夢中になっていったのです。そこで実際の読売巨人が戦う姿をテレビで観ると、川上監督や長嶋、王が出てるのでアニメの中で観た人達がここにいる。
巨人ファンになるでしょう。
1番センター柴田⇒赤い手袋スイッチヒッター
2番レフト高田⇒常に引っ張りレフト線。強肩
3番ファースト王⇒世界のホームラン王
4番サード長嶋⇒彼こそが巨人の星
5番ライト末次⇒大器晩成右打ちの天才
6番ショート黒江⇒ミスターサヨナラ男
7番セカンド土井⇒山椒は小粒でピリリと辛い
8番キャッチャー森⇒後の名将リードは厚い信頼
9番ピッチャー堀内⇒悪太郎打者でも天才
これだけのメンバーを揃えると毎日がワクワク。この頃には長嶋の衰えが目立つようになり、私が野球を観始めて2年目の秋に引退という事になる訳ですが、其れが1974年の10月14日。ダブルヘッダーの2試合が終わってあの名スピーチ。名台詞が出るわけです。私がサラリーマンを引退したのは3年前の6月。そのだいぶ前から私は、定年退職してスピーチをさせて貰えるんならその場であのセリフを言おうと心に決めていたんです。自分が引退するときは長嶋さんのスピーチしかない。
「今日私はサラリーマンを引退いたしますが、我が〇〇〇〇〇〇〇〇〇は永久に不滅です」。
この言葉をスピーチの締めとして会社を去りました。
2022年の6月1日の事でした。
ゴーニィ土日パチンカーの終焉⇒2022年6月1日
NYY ルー・ゲーリックの命日⇒1941年6月2日
読売巨人軍長嶋茂雄の命日⇒2025年6月3日
この3つ。ほぼニアイコール。
長嶋さんとの思い出は、長嶋さんだけじゃないですね。V9戦士全員。川上哲治や王貞治や柴田、高田、末次、黒江、土井、森。巨人 以外でも阪急の西本監督。南海の野村克也。1970年代半ばの同志たち全員が思い出されるけど、その中でもやっぱり長嶋さんは特別 な存在。
809424714441522
この15ケタの数字って分かります?これは
8094打数2471安打
444本塁打、1522打点ね。
この15ケタの数字はいつまで経っても忘れないで私の記憶の中にあります。普通これだけの事を覚えてる選手はいないけど長嶋さんはやっぱり特別ですね。王や松井は本塁打の数しか覚えてないけど、長嶋さんだけは全部覚えてるもん。
868
762
755
714
・
・
・
・
・
・
444
元ヤンキースのAロッドが面白いことを言ってましたがね。
大谷翔平は世界の星
アーロン・ジャッジはアメリカの星
ファン・ソトはただの野球選手
長嶋茂雄は巨人の星ですよ。
思い込んだら試練の道を
行くが男のど根性
真っ赤に燃える王者のしるし
巨人の星を掴むまで
血を汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ
さようなら長嶋さん。野球を教えてくれてありがとう。
<ゆけゆけ飛雄馬>ささきいさお
コメント
ゴーニィ様
投稿ご苦労様です
「巨人ファンとは結婚できん」で爆笑しました
私の世代は小学校で、王貞治のホームラン新記録は何月何日に達成かと盛り上がっていて、野球はじめスポーツ全般関心が薄かった私には、長嶋氏は巨人の星に出てくる人と言う感じでした
昭和は遠くなりにけりと言う感じです
ではまたー
本当ですねえ。
長嶋さんは巨人の星。
彼は観客とかファンを楽しませるために一生懸命に野球に打ち込んだ訳です。ここで私が記事を掲載させて頂いてるのも、読者様あってのもの。読み手が如何にして楽しめるかということを考えて文章を書いてきたつもり。
最近はよれよれですけれど、今しばらく
頑張ってみます。